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牧師のひとり言

最近のメッセージから 「救いに至る信仰」ローマ書2章25−29節


 

I. 外見ではない

II. 心からの新生

III. 神に従う


私たちは、罪の世界から救われて、神のみ国に入れられたものです。この地上を去った後に、永遠が始まるわけですが、私たちは、この地上にいながら、永遠のいのちをいただいて生きています。それは、聖書に、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3章3節)とある通りです。私たちは、「水と霊によって生まれる」、すなわち、(水=きよめ)きよめられ、聖霊によって新しく生まれる必要があります(3章5節)。それは、全て神様がしてくださったことです。救いを受けるために、私たちができることはありません。私たちは、ただ自分の罪を認め、悔い改め、イエス・キリストの十字架の死は自分の身代わりであったことを信じるだけです。

 

エペソ2章8−9節「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とある通りです。


一方で、確かに神様の恵みを受けて、新しく生まれた人は、その歩みが信仰を反映しているはずです。


エペソ2章10節「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」


しかしながら、パウロがここで語るように、全く別のものに望みを置いている人たちがいます。もしそうだとしたら、それは大変な悲劇です。本日は、「救いに至る信仰」という題でお話をしたいと思います。


I. 外見ではない(28節)

 この箇所で、パウロはユダヤ人の割礼という儀式について言及しています。ユダヤ人の男子は生まれて8日目に割礼を受けるようにと教えられています。(創世記17章11−12節)これは、神様とアブラハム、そしてその子孫との契約のしるしでした。いわば、神様の契約に入れていただいたことを表すしるしとして、男子はみな割礼を受けなければならないと言われたのです。その意味を真剣に受けとめた人にとっては、それは神様の御心に自分を委ねて従うことを意味しました。


しかし、一方でその意味が変わっていきました。それは、まず、割礼が神聖化されてきて、割礼を受けていればきよいが、受けていなければ汚れている、と異邦人を裁くようになりました。そして、割礼を受ければ、自分は神様の契約に入れていただいたのだ、つまり、神の救いを受けているという間違った安心感を持つことになったのです。そのような間違った考え方に対して、預言者は警告を発します。


エレミヤ4章4節

「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」


私たちクリスチャンにとって、間違ったものに信頼を置くとしたらどのようなものでしょうか。例えば、割礼を受けたということになぞらえるなら、信じていないのに、成り行きでバプテスマを受けてしまった、とか、自分はクリスチャンホームなので、信仰告白をしてはいないが、クリスチャンなのだと思っている。


このようなお話をすると、自分の救いは大丈夫かと心配してしまう人がいます。しかし、そもそも、今現在、神様と共に歩んでいるなら、その心配は全く不必要です。


II. 心からの新生(29)

 ユダヤ人は割礼という儀式に望みを置いていました。つまり、割礼さえ受けていれば、自分は神の国の一員であると考えていました。しかし、その割礼さえも、神様は外見ではなく、心の割礼を受けるようにと言われているのです。


29節「御霊による、心の割礼こそ割礼です。」とあります。実に、申命記にすでに神様がそのように言われているのです。


申命記10章16節

あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。


心を頑なにしないで、罪を悔い改めるようにという命令です。


申命記30章6節

あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。


この箇所では、神様が一人ひとりの心の包皮を切り捨てられる、つまり、心の割礼をされるといいます。これは、神様が心からの新生を成し遂げてくださるということなのです。


割礼とは、一人一人が神様を信じて、全てをお委ねするという心の決心を表すものなのです。それは、バプテスマと共通しています。日本では、バプテスマ(洗礼)を受けること=クリスチャンになると考えられています。しかし、それは間違いです。なぜなら、バプテスマという行いによって救われるということになるからです。しかし、本来は、バプテスマを受けるとは、その人がイエス様を信じ受け入れたことを公に証しすることです。


III. 神に従う(25−27節)

パウロは、ここで律法を守ることを強調しています。もちろん、もし心からの新生を受けていなければ、誰一人律法を守ることはできません。つまり、ユダヤ人も異邦人もないのだというわけです。割礼が意味があるとすれば、それは、律法を守っていればということであり、むしろ、律法を守っていなければ、割礼はなんの意味もなく、無割礼となるというわけです。


もう一度、申命記30章6節をご覧になってください。そこには、後半に、「あなたが心をつくし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」とあります。これは、マタイの福音書22章36−40節にあるように、一番目と2番目に大切な戒めなのです。


「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。


つまり、私たちが心からの新生を受けると、当然それまで興味のなかったことが一番大切になります。それまでは、自分が一番大切でした。自分の欲のままに生きてきました。しかし、新しく生まれるなら、その時から神様に喜んでいただきたいと願うようになります。もちろん、全く失敗しないかというとそうではありません。むしろ、失敗の連続でしょう。しかし、信仰によって歩んでいくなら、その歩みが確かにされるのです。


神を愛し、隣人を愛するようになる。神のために生き、人のために生きるようになる。そして、全ての律法はその2つの戒めにかかっているというわけです。


私たちが救いを受けるのは、外見によるのではありません。ユダヤ人と異邦人、という区別ではありません。割礼を受けているかではありません。クリスチャンホームかどうかということではありません。そのようなことに望みを置くことはできません。


むしろ、心からの新生を経験しているか、そして、それに沿って生きているかということです。新しく生まれたのであれば、それまで大事であったことが二の次になります。


パウロはこう言っています。


「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。」(ピリピ人への手紙3章7、8節)


あなたにとって何が大切ですか。救われる前は自分のやりたいことがいっぱいあったでしょう。しかし、救われてからは、神様の御心はなんだろうか、祈り求めてみます、という姿勢になるのではないでしょうか。


そして、そのように生きれば生きるほど、自分の足りないところが見えてきます。自分中心のところが見えてきます。そして、それを悔い改め、また一歩前進するのです。これがクリスチャン生活です。天国への道なのです。そのような信仰こそ、救いに至る信仰に他なりません。あなたは、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受け取りましたか。まだでしたら、是非受け取っていただきたいと思います。




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