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「牧師のひとり言」最近のメッセージより 詩篇1篇 「幸いな人とそうでない人」


I. 誰と仲良くするか(1-2)

II. 人生で残るもの(3-4)

III. 人生が終わった後で(5-6)


祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。」(伝道者の書7章2−4節)


親しい方が亡くなられると、その人のために悼み悲しみます。その時、ふと思うことがあります。それは、死は一瞬だということです。長い闘病をしていた方もいれば、突然事故でいのちを落とす方もいます。 どちらにしても、今までそこにいた人が、この地上から去ってしまったのです。伝道者7章2−4節は、残された私たちに、残りの人生をどのように生きるかを考えるようにと言っています。死は必ずやってきます。その時考えても遅いのです。


誰でも、人生は1度しかないことを知っています。そのために、できるだけ幸せに生きたいと思います。多くの人はそのために努力をします。しかし何が幸せなんでしょうか。詩篇1篇1節はこのように始まります。「幸いなことよ。」 この言葉は、神からも人からも幸せだと言われる人生を送っている人を表します。 この言葉はマタイの5章にある「山上の説教」で「幸いなことよ」と言われている言葉に重なります。


私たちは、今「幸い」といえるでしょうか。人生を振り返ったときに幸せだったと言えるでしょうか。そして、永遠に入る時に、神様に「幸いな人」と言われるでしょうか。


I. 誰と仲良くするか(1-2)


何が人を幸せにするのでしょうか。 富、仕事、家族でしょうか。 そのどれでもありません。幸いであるかどうかは、 その人の人生を何が動かしているのかということなのです。その人の人生の原則は何か、ということです。 それは、誰と仲良くしているのかということに尽きます。1節には、 幸いではない人が悪者と付き合っていることを示しています。しかし、2節には幸いな人が神に近く歩んでいることが記されています。


ではまず、幸いではない人のことを考えてみましょう。 ここには、3つの段階が記されています。もちろん、実際には、その人が今どの段階にいるとは言えないでしょう。しかしながら、だんだんと深みに入っていくことがわかります。


​悪者(the ungodly)→

罪人(sinners)→

あざける者(the scornful)

はかりごと(アドバイス)→

​道→

歩む→

立つ(立ち止まる)→

座る


悪者とは、 英語で、ungodlyとあります。 それは、それほど悪い人のことを言ってはいません。少なくとも、神のように考えていないが、もしかしたら、その人は道徳的には良いと世間では思われている人かもしれないのです。その反対は義という言葉です。それは神の基準に合致していると言うことです。すなわちこの「悪者」というのは、神の基準には達していないが、人々からはもしかしたらいい人と思われているかもしれない人です。初めはそのような人と一緒に歩いて、その人のアドバイスに耳を傾けます。 次に、罪人。罪と言う言葉は、もともとは的外れと言う意味ですが、実際には、神様の教え、戒め、また、法律を破る人です。 そのような人と一緒に立ち止まり、さらには、あざける者(罪や裁きをあざけり、戒めを受け付けない人)と一緒に座る。罪がその人の人生の方向性を変えていく様子が描かれています。


幸いな人は、そのような人と仲良くして生きるのではなく、むしろ、神様と 仲良くしています。その人は、 主の教えを喜びとします。 この喜びと言う言葉には、感情的な意味合いもあります。「教え」という言葉は、律法という言葉です。聖書を読んで、それが喜びで、心が熱くなり、思わず叫びたくなるような時もあるでしょう。


また、昼も夜もその教えを口ずさむとあります。 口ずさむとは、もともとぶつぶつと言いながら言葉を思いめぐらすという意味です。みことばを何度も何度も繰り返して言い、それを覚える位まで思い巡らす人です。


幸いな人となるかどうかはこの1点で決まります。 神を認めない人の考えに影響されて生きるのか、それとも真の神様の御ことばによって、それを自分の生きる指針として生きるのか、そのために日々御ことばを自分の心に蓄えて、喜んで、思いめぐらす時間をとっていくのかということが問われているのです。私たちはどちらでしょうか。中途半端でしょうか。それなら、決して幸いとは言えないのです。


II. 人生で残るもの(3-4)


詩編90篇10節において、モーセは「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」と言っています。


それでも、多くの人は、人生の最期に、自分は幸せであったと考えたいのです。男性は、自分の仕事でどれだけの業績をあげたかたということを自慢したいでしょう。女性は、どうでしょうか。子供を立派に育てたということでしょうか。しかし、出エジプトという偉業を成し遂げたモーセでさえ、その誇りとするところは労苦と災いだというのです。


その中でも、幸いな人とそうでない人には違いが出てきます。すなわち、一言で言えば、その人が生きてきた人生が実を結ぶか、結ばないかということです。 幸いな人の人生は、水路の側にうわった木に喩えられています。 常に水があるので枯れることがないのです。そしてそれだけでなく、多くの実を結んでいきます。それは、その人が常に 神様の御ことばに親しんで、みことばから力をいただいて、そのみことばに従って生きているからです。 若いときには、体力も気力もあり、自分の力で道を切り開き、何でもやっていくんだと言う人は多いです。しかし歳を重ねると、体力も気力もなくなっていきます。 それでも、実を結び続けるというのは、自分の持っている力ではなく、神様からの知恵と力をいただいて、それによって生きている人だからです。その人は、いわばキリストの香りを放ち、周りに良い影響与えていくことができる人です。


一方、幸いではない人のことを、4節では悪者と言っています。すなわち、不敬虔な人のアドバイスに耳を傾けている人は、その人自身が悪者となり、その人生の結んだ「実」は、風が吹き飛ばす籾殻のように中身がない、空っぽなものとなってしまうのです。 どれほど、自分の業績や家族を自慢したとしても、神の前にその人生は全く空っぽの人生となるのです。その人が死んだ後に、どれほどの人がそれを覚えているでしょうか。 私たちは、便利な生活をしています。それは、戦後、高度成長期の時代に頑張ってくださった方のおかげと言えるでしょう。また、今でも、技術開発をし、資源を輸入し、良いものを作ってくださっている方のおかげでしょう。しかし、その人たちの業績を誰が覚えているでしょうか。


私たちも、いつか死を迎えます。その時に、自分の歩んできた人生で実を結んできたのかどうかは、 私たちが神様とどれほど歩んできたかということに尽きるということを覚えて頂きたいのです。


III. 人生が終わった後で(5-6)


人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル書9章27節)


神のみことばを拒絶し、神抜きで生きる人たちの助言を聞き、自分もそのように生きる人たちに対して、神が言われる事は、神の裁きでその人は立つことができないということです。それはどういう意味でしょうか。その場で倒れてしまい、聖徒たちとともに神の前に出ることができず、そこから追い出されてしまうと言うことです。6節には、その人の歩んできた人生の道は、最終的に滅びとなってしまうとあります。


皆さんはどこかの遺跡を訪れたことがあるでしょうか。 多くの人が行き交い、商売を行い、裕福な人もたくさんいた、そんな遺跡を。 しかし今や、誰も住んでいない、動物たちがねぐらにしているそんなところを。 ある所は観光地となって、人々が訪れるかもしれません。しかし、現実は、当時いた人はもういないし、その場所は街として機能していないのです。まさに廃墟でです。悪者、罪人、あざける者に耳を傾け、自らもそのようなものとなって生きてきた、その最後は、 永遠の滅びということになります。本当にそれでいいのでしょうか。


一方、正しい人、つまり神の基準に合致して生きてきた人はどうでしょうか。その人は神に知られています。神は、彼の生きてきた道を知っており、報いてくださるとあるのです。


皆さんも、神様の前に立つ自分を想像していただきたいのです。その時は決して遠い未来ではありません。死は誰にでもいつでもやってくるものであります。そしてそれは神様が決めておられると言うことです。生と死の境目は一瞬です。


誰と仲良くしていきたいでしょうか。神様とでしょうか。それともこの世でしょうか。神を愛すると言いながら、世を愛することはできないのです。(ヤコブ4章4節)「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」また、人生で実を結ぶかどうか、それはただ一点、神との歩みです。みなさんは死後、どこにいくでしょうか。永遠のいのちは、イエス・キリストしかありません。まだ、イエス・キリストを信じていらっしゃらないなら、どうぞ、イエス様を救い主と信じてください。


「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(ローマ書10章13節)




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