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牧師のひとり言

最近のメッセージから「神は正しく裁かれる(2)」ローマ人への手紙2章6−11節

 

I. それぞれの行いに従って報いる(6)

II. 信仰によって善を行う人に永遠のいのちを与える(7、10)

III. 真理を拒んで悪を行う人に神の怒りがくだる(8−9)


神の裁き、というと、皆さんは、神様はなぜそのような厳しいことを言われるのか、と思うかもしれません。しかし、それが正しい裁きであればどうでしょうか。私たちも、少なくとも不法が行われていると、それに対する正しい裁きが行われることを望むのではないかと思うのです。ウクライナで行われていると報道されている、ロシア兵のさまざまな蛮行に対して、それに対して、 正しい裁きが行われることを私たちは願います。また、もし私たちの近しい人が犯罪に巻き込まれたとしたら、犯人に対して 正しい裁きが行われることを心から願うのではないでしょうか。


しかし、一方、神様が裁くお方であって、その対象が私たちであったとすると、「どうして神様は」と思う人が多いのです。それは、神様というお方がどういう方かを知らないで、自分の中で作り上げた 「こうあるべきだ」という神様のイメージに合わないからだと思うのです。 もし神様が、悪を行う人に対して正しい裁きを行われるとしたら、(そして必ず行われるのですが)、私たちに対してもそうされるのは当然ではないでしょうか。神様は一点の罪もない、正しい神様です。ですから、 私たちの罪をそのままにされることはありません。一方、神は愛のお方ですので、私たちを救うために、身代わりとしてひとり子イエス・キリストをこの地上に送られ、イエス様は十字架にて私たちの罰を身代わりに受けたのです。それによって、私たちは救いを受けることができます。 神様の一方的な恵みによって救いを受けるのであって、私たちの行いは救いを受けることには一切関係ないのです。


この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ2章8−9節


I. それぞれの行いに従って報いる(6)


6節を見ますと、「神は、一人ひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。と書いてあります。」 そこで、聖書をよく読んできた皆さんは、きっと何かふに落ちないと感じることがあるのではないでしょうか。それは、 その人の行いに従って報いをお与えになる とすると、「行いによって救いを得ることができる」とも、一見して読めてしまうからです。すると、先ほど読んだエペソ2章8−9節と同折り合いをつけるのか、とお考えになるかもしれません。


確かに、救いは神の恵みによって行いによるのではありません。私たちの行いが入り込む隙間は一寸たりともないのです。それでも、神の報いは一人一人の行いに対して与えられるのだとパウロは教えています。さらに、ここでは、信仰義認という素晴らしい教理を教えているのではなく(3章〜)、そのための下地として、人は皆、神の前に裁きを受けなければならない存在なのだということを教えているのです。 先程エペソ2章8−9節を読みましたが、10節には以下のようにあります。


実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」エペソ2章10節


つまり、私たちの救いは神の作品である、私たちが暗闇から光へと、サタンの支配から神の救いへと変えられた「神の作品」であるわけです。それ故、当然、神の作品としてのふさわしい行いがあってしかるべきなのです。以前の暗闇の行いを悔い改め、キリストを信じるものとされたのですから、今度は、光の子としてのふさわしい行いがあるはずなのです。クリスチャンであっても、永遠の命は頂いていますが、それとは別に、キリストの御座の裁きを受けることが定まっています。


私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」2コリント5章10節


それはクリスチャンにとって、とても良いことであると思います。なぜなら、自らの信仰告白にあぐらをかくのではなく、キリストを信じるその信仰にふさわしい実を結んでいるかどうかを常に振り返りながら、ますます信仰にと進むことができるからです。


II. 信仰によって善を行う人に永遠のいのち(7,10)

 

6節で語ったことを、パウロは7−11節において説明をしています。まず、信仰によって善を行う人に永遠のいのちを与えると言います。7節と11節でそのことが記されています。ここでは、ヘブライ語の語順が見られるところです。キアスムス(交差ついく)という手法です。ギリシャ語にカイという文字があります。それは、×のような形です。最初にAを言ったら、次にB、そして、B’、それからA’に戻るというものです。詩篇や箴言にはよく見られる手法です。一般に、そのような形の時にはBに焦点が当てられるのですが、ここではそれほど強調する必要がないと思われます。AもBもどちらも大事なことです。


まず、 Aは7節と10節です。そのどちらにも「信仰」という言葉はないのですが、ポイン

に「信仰によって」とさせてもらいました。先ほど申し上げたように、ここでパウロは信仰義認を語ってはいません。ですので、「信仰」という言葉はないのですが、理解する上でわかりやすいので、敢えてそのようにしています。


「忍耐をもって善を行い」とあります。「忍耐」(ὑπομονὴ)は32回新約聖書に記されていますが、全て信仰者に対して使われています。さらに、もし神様を信じて、望みを抱いていないならば、どうやって忍耐できるのでしょうか。また、その他にここで使われている言葉、すなわち、「善を行い」、「栄光、誉れ、そして不滅のものを追い求める」とありますが、それぞれ、神様を心から信じていなければ、神の栄光、神からいただく誉れ、そして、神が備えておられる不滅のものをどうやって追い求め続ける(現在形)ことができるのでしょうか。

そのような人に対して、神は永遠のいのちを与えられるのです。それは、そのような歩みをしている人は、本当にイエス様を信じているからなのです。次に10節を見ますと、栄光と誉れと平和が「善を行う」人に与えられるとあります。よく見比べてみると、7節で「栄光と誉れと不滅のものを追い求める」人に「栄光と誉れと平和を与える」というのです。平和とは神との平和、すなわち神との和解=救い、そしてそれは不滅のもの=天国における永遠のいのちを受ける、のですから、神様はそのように求める人に与えられるということなのです。なんと素晴らしいことでしょうか。


さらに、ここで9−10節の両方に出てくることがあります。それは、「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも」という表現です。それは、11節にあるように、神にはえこひいきなどはないからです。1章では、主に異邦人に対して、神の特別な啓示がなかったのだから、神を知らなくても仕方がないと考えているとしたら、弁解の余地がないとパウロは教えました。また、2章では、1節にて、ユダヤ人を念頭において、やはり結局自分も同じことをしているのだから、弁解の余地はないと言いました。この点においてユダヤ人も異邦人もないのです。


皆さんは、イエス様を信じて救いを受けた方々です。では、一体何を求めていらっしゃるでしょうか。それは、地上のものなのでしょうか。それとも、神様の栄光、誉れ、不滅のものなのでしょうか。振り返る良い機会です。そして、もしどこかそうでないとしたら、悔い改めてキリストに立ち返って、また一歩一歩主のご栄光のために生かされて行きたいのです。


III. 真理を拒んで悪を行う人に神の怒り(8−9)

それでは、8−9節に注目しましょう。8節には、対比があります。「従わない」と「従う」。同じ言葉に否定語がついているかどうかなのです。元々の言葉の意味は、「説得する」つまり、これを信じてそれに従うように説得されて、身を委ねるか、身を委ねないか、ということです。そして、その目的語は、「真理」、そして「不義」。真理に従わないで、不義に従う。反対であれば良いのですが。結局、真理を拒絶するなら、不義(義の否定語:神の示された基準から外れていること)に身を委ねていくことになるのです。それを9節では「悪を行う」と言われています。


日本語で「悪」というと、特別にひどいことだというニュアンスがあります。「悪どい商売」とか、「悪党」など。辞書には、人道や法律に反することとあります。しかし、聖書では、神様の示された真理を拒絶すること、また、神様の定められた基準から外れたことに従うことが悪を行うことになります。それならば、神様以外のものを拝んだり、自分中心であったり、人のものを欲しがったり、人を馬鹿にしたり、そう言ったことも悪を行うことになるのです。それならば、全ての人がそのようになります。なぜなら、人は皆、罪人(つみびと)だからです。


それに対して、神様は怒りと憤りを下されるとあります。神の怒りについては、私たちが持つ怒りとは違って、自分のために怒るというものではありません。むしろ、神は罪を犯す人間に対して忍耐をもって待っているが、その忍耐が終わる時に下される裁きを伴うものです。その結果は、9節にあるように、患難と苦悩です。患難とは、非常に厳しい苦しみのことです。苦悩という言葉は、4回使われていますが、全てパウロ書簡にあり、他の苦しみを表す言葉と並べてあります。


「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」第二コリント12章10節


クリスチャンが苦しみにあうことは、必ずしも罪のためではありません。ダビデは兵士の人数を数えることで傲慢の罪に陥り、その後、苦しみを受けました。しかし、ヨブは正しく生きてきたのにも関わらず、あれほどの苦しみを受けたのです。


ローマ2章9節に戻りますが、真理に従わず、不義に従って、悪を行う人に対して与えられる神の怒りの結果、患難と苦悩がくだるのです。それは、もしかしたら地上の人生が終わってからかもしれません。そうだとしたら、それは神の憐れみでしょう。


最後に11節にあるように、神にはえこひいきなどありません。一人ひとりの行ったことに従って報いをお与えになります。ユダヤ人でも異邦人でも、それぞれの行いについてなのです。では、私たちはどうすべきでしょうか。


1 まず覚えておきたいことは、神様の前に立つときに、決して言い訳ができないということです。人は必ず神様の前に立ちます。その時に、ああだこうだとは言い訳ができないのです。今、人に対して言い訳をして、なんとか言い逃れができたとしても、神様の前には弁解の余地がありません。


2 行いによって裁かれるとなると、行いが変わらなければなりません。しかし、どうやってできるのでしょうか。それは、神様の恵みを受けるしかないのです。悔い改めて、人生の方向転換をし、地上のものではなく、天上のものを求めていく生活は、神様によって変えられるしかありません。


3 真理が提示されてそれを拒むなら、不義に従うことになります。実際にそうしているのです。そして、それは悪を行うことであり、神の怒りが降ります。具体的には患難と苦難です。人は人生に苦しみがあると、間違ったものに救いを求めます。そして、状況がよくなるとご利益があったといい、良くならないとまた別のものに移ります。しかし、神以外に救いを求めることが患難と苦難の原因です。もちろん、真の神様を信じて状況が一変するとは限りません。むしろ、そのままのことも多いでしょう。しかし、そこには栄光と誉れと不滅のものを求め続けることができる忍耐が与えられ、そして、その希望は確かで必ず与えられるのです。

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