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牧師のひとり言「特権には責任が伴う」ローマ人への手紙3章1−8節


 

パウロはローマ書2章において、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。」(28節)と言っています。そして、「 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」(29節)とも言っています。とすれば、3章1節において「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。」という問いが発せられるとしても当然でしょう。


ユダヤ人からしてみれば、当然の問いかもしれません。実際に、旧約聖書によると、ユダヤ人が神様から選ばれたが故に、約束が与えられているのです。例えば、申命記14章2節には、以下のようにあります。


「あなたは、あなたの神、の聖なる民だからである。は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」


出エジプト記19章6節には、「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』」


その他にも、神様がユダヤ人を 選ばれて、特別な民として扱っておられるという箇所がいくつもあります。それなのに、パウロはここで、異邦人がむしろユダヤ人を裁くことになるとまで言います。


「からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。」(2章27節)


ユダヤ人にしてみれば、神様の民でありながら、多くの辛いところを通ってきました。エジプトでは、奴隷状態にあり、その後、出エジプトをしますが、彼らの不信仰のゆえとはいえ、四十年間の荒野の旅をすることになります。約束の地に入ったかと思えば、そこでは自分たちで既に住んでいるカナン人と戦って追い払わなければならなかったのです。そして、12部族のうち10部族はアッシリヤによって殆ど外国へ連れて行かれ、南ユダも結局バビロンへ70年の捕囚を経験します。では、ユダヤ人の優れたところは何なのか、と。


パウロは、ローマ書において、想定される(あるいは実際に発せられた)質問とそれに対する答えという形で論を進めています。その進め方に従って私たちもこの箇所から主のみことばに目を留めていきましょう。


I. 与えられた特権(1−2)


ユダヤ人が優れた点は何か、それは神のいろいろな言葉を委ねられているということです。他に何がなくても、それは大きなことと言えます。神様は確かにご自身を自然を通じて表しておられます。

 

詩篇19篇1−3節「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え 夜は夜へ知識を示す。話しもせず 語りもせず その声も聞こえない。


また、私たちの心の中に良心を与えておられます。基本的に何が正しく、何が間違っているかが判断できます。もちろん、人は罪人であり、 その罪によって私たちの良心には損なわれている部分があります。しかしながら、基本的にはそのような判断ができます。これは人間にしか与えられていない特権です。


そのような神の一般啓示が与えられているので、誰一人弁解の余地はない、とパウロは言っています。


それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(1章19−20節)


しかし、人が救われるためには、それ以上の啓示、すなわち特別掲示である神のことばが必要です。聖書には、神が全てを造られたこと、神が きよいお方であり正しいお方であること、私たちは皆、神に背を向けて歩いてきた罪人であること、そのゆえに私たちは滅びに定まっていると言うことが記されています。さらに神は私たちを愛してくださり、罪の刑罰である永遠の地獄から私たちを救うために、ひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わし、キリストが私たちの身代わりとなって十字架に掛かられたことが記されています。そのことを私たちは 知ることができるのは、聖書によるのである。


ユダヤ人は少なくとも、旧約聖書が委ねられていて、以下のことが記されています。 メシア(キリスト)が遣わされるということ、それも自分たちの民族から生まれてくるということ、いつ生まれてくるのかどこで生まれてくるのか、そして何をされるのか、すなわち苦しみを受けてのち、よみがえられるという事。「ゆだねる」という言葉には、「信頼する」という言葉が入っている。(entrust)つまり、彼らには、使命があって委ねられているのです。

 

そのような特別な啓示 が与えられていること以上に、優れたことはないのではないでしょうか。


そして私たちクリスチャンは、このユダヤ人たちよりももっと優れた祝福をいただいています。なぜならば、旧約聖書のほかに、さらにイエスキリストがこの地上でなされたこと、すなわち十字架の贖い、よみがえり、さらに再び来てくださるという約束、その他、様々なことが記されている新約聖書もいただいているからです。


II. 神は真実なお方である(3−4)


しかし、残念ながら神の御言葉が委ねられているはずなのに、その御言葉に対して不真実であったというのもまたユダヤ人の歴史なのです。不真実という言葉にも、やはり「信頼する」という言葉が語根に入っています。つまり、ユダヤ人は神様にみ言葉が委ねられていたのに、それを信じない人が多かった、ということです。確かに、ユダヤ人は神に選ばれた民です。しかし、その目的は、神の栄光を表し、真の神が異邦人が崇拝している神々とは全く異なるお方であり、彼らが崇拝している偶像は何もしてくれないし、それを拝んでいる人々は結局滅んでしまうことをはっきりと伝えるためでした。


先程、読んだ出エジプト記19章6節に、「祭司の王国」とありました。祭司とは、人々のために神にとりなしを行う役割が与えられています。よって、元々彼らは神のきよさを表すとともに、異邦人に真の神をしめし、神に導くことが求められていました。


しかし、彼らはむしろ、その異邦人に影響され、彼らの偶像を拝み、さまざまな罪に陥っていきました。それゆえにアッシリヤに北王国は捕囚され、南王国はのちにバビロンにとらえ移されます。また、70年のバビロン捕囚を終えて、戻ってきた時には、確かに偶像崇拝は無くなったが、一方で自分でも守りきれないような厳しい掟を定めて教えるパリサイ人が現れます。さらに、異邦人やサマリヤ人(混血)を軽蔑し、彼らに真の神様を伝えるどころか、彼らを軽んじていました。


そんなユダヤ人、つまり不真実なユダヤ人がいたからと言って、神の真実が無に帰することはないのです。どれほどの人が神様の言葉に目を向けず、信じなかったとしても、神の言葉は真実であることに変わりはありません。


確かに、人の言葉はそういうわけにはいかないでしょう。例えば、ある人が真実を伝えたとしても、多くの人がそれを受け入れなかったら、いつの間にかそれは忘れ去られ、嘘がまかり通ってしまいます。しかし、神の言葉はそうではありません。


私たちにも神のみ言葉は委ねられています。そこで、まず大切なことはそれが正しいと信じることです。信じるためには知らなければなりません。また、信じるということはそれに沿って行動しなければならないのです。


III. 神の裁きは正しい(5−8)


次の質問は、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるかということです。例えば、宝石店に行くと、宝石はよく黒い布の上に置かれているでしょう。金やダイヤモンドはそれだけで輝くわけですが、それを黒の布の上に置くとより一層その輝きがはっきりとわかります。つまり、私たちが正しくないとしたら、それによって一層神の義がはっきりとわかるのだから、それなのに、神が私たちに対して怒りを下す神は不正なのではないかという質問です。しかし、それも完全に間違っています。そもそも、神の正しさは絶対的なものであり、私たちの不義があろうとなかろうとそれは変わらない。もしそんな議論が正しいとしたら、神は裁くことができないであろうということになります。


さらに一歩進めて、私たちの偽りによって、神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となる、とすれば、なおわたしたちが罪人として裁かれるのかという質問です。確かに、私たちの生まれてきている目的は神様の栄光を表すためです。そうであれば、本来とは異なる方法かもしれないが、いずれにしても自分の偽りによって神の栄光を表すことができるなら、それでも良いではないか、というのです。しかし、それは詭弁です。そして、実はどうやら8節によると、「善を表すために、悪をしようではないか。」と言っているとパウロ自身が責められています。当然、それは間違った非難です。


私たちの偽りは神の栄光にはならない。神の真理が明らかにされるために、私たちの偽りは必要ありません。わたしたちがその偽りから離れて、神の恵みによって変えられていくときに、神の栄光が現れます。例えば、名医が難しい手術でもしっかりと準備して行い、成功させ、患者が社会復帰できたとしたら、その名医の栄光となる。それは、難病を持っている患者がいるからではなく、その患者を治したからです。私たちの罪は自分ではどうしようもありません。自分で解決できる人は一人もいません。できるのは、神様だけです。だからこそ、神の栄光となるのです。


パウロはまだ救いの教理について詳しく説明してはいません。しかし、ここから言えることは、人は不義のままでは望みはないということ、人は偽りのままでは望みはないということ、そして、罪のままでは望みがないということです。その罪の解決が必要です。それを解決してくださるのは、イエス様しかいないということです。


この世のさまざまな哲学や考えに決して惑わされてはなりません。私たちには真理のみ言葉があります。これこそが決して変わらない神の言葉であり、これを信じ、これに歩み、これを伝えなければならないのです






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