キリストにある和解
コロサイ書1章20−23節より(5月24日礼拝メッセージより)
20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。
序論
ある兄弟がいがみ合って、隣同士に住んでいた。一人が大工を雇って、両者の間に高い壁を作るようにいった。しかし、その日の終わりに見てみると、大工は両者の土地の間に、橋をかけていた。それを見た兄弟はお互いに抱き合って、和解した。これはフィクションであるが、それが本当であれば、感動的なお話である。
聖書には、「平和を作り出すものは幸いである」とある。しかし、それはまずその人が神と和解をしている必要がある。そして、その鍵はキリストである。
I. 和解の必要性
「20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、」
戦争が長引くと、いつかは和解をして終戦を迎えたいと願う。多くの場合、それがなかなかできないのは、その条件に不満があるからだろう。しかし、少なくとも戦争状態は誰しも辛いし、いつ命を落とすかわからず、財産も失い、人権も蹂躙されるかもしれない。
では、聖書は私たちに和解が必要だというのだが、なぜだろうか。それは、私たちは神と敵対状態にあるからだ。21節によると、私たちは「敵意を抱き」とあるように、神に対して、敵意を抱いている。それは、最初の人であるアダムから始まった。
サタンが蛇の形を取ってエバに近づき、エバは蛇の言うことを信じて、食べてはならないという善悪の知識の木から実を取って食べた。すなわち、それは神に敵対しているサタンの言うことを信じたのだから、神のおっしゃることを否定した。そして、アダムもそれを食べて神から離れ、神に敵対することとなった。そして、それによって人は悪い行いをするようになった。それは罪という。
万物を造られ、全てを支配しておられ、魂をも滅ぼすことのできる方に対して敵対して生きることほど、愚かなことはないだろう。実際に、ほとんどの人は、その事実すら知らない。そして、これで良いのだと思い込んで生きている。しかし、私たちの人生は摩擦、不和、争いに満ちている。神を知らない人は進化を説くが、科学技術ばかり進歩して、なぜ人間自身は進歩しないのか。創世記3章で人類に罪が入り、4章にはすでに兄弟間の殺人が起こる。兄のカインが弟のアベルの命を奪う。原因は嫉妬であった。私たちは毎日のように悲しい事件のニュースを耳にする。家庭内の殺人である。すでに六千年の年月が経っているのにも関わらず、人間は変わらず、罪深いのである。
自分はそんな犯罪には関係がない、と仰るかもしれない。確かに、今はそうであるだろう。しかし、その人たちの多くも、まさか自分がそんなことをするとは夢にも思わなかったというのではないか。なぜなら、犯罪の種である罪の性質を私たちは持っているからだ。そして、そんなひどいことをする性質を私たちは皆持っている。「悪い行い」をするのである。そして、神は全てをご存じであり、いつか神の前に立った時に、誰も言い逃れはできない。神は聖なるお方であり、義なるお方である。日本では法律が基準となってそれによって裁かれる。しかし、何人であろうと、人は聖なる、義なる神の基準で裁かれる。すると、誰一人、自分には罪がないと言える人はいない。そして、神の裁きに耐えられる人はいない。そして、その刑罰である地獄で永遠に苦しみ続けるほど辛いことはない。
だから誰もが神との和解が必要なのである。ではどうすれば良いのか。それは、キリストの十字架の血によるとある。神はキリストが来られるずっと前から人が罪を犯すと、動物の犠牲をささげるようにとユダヤ人を通して教えてこられた。それは、動物の血によって人の罪が赦されるわけではない。それは、影であって、本当に人の罪が赦されるのはキリストが十字架で血を流されて死なれたことによる。
「和解」の意味は「変化」である。それまで敵対関係だった両者が、和解して、その関係が変化し、友好関係を持つことになる。そして、キリストによってそれまで神は私たちに怒りを持っておられたが、その怒りをキリストにおいて罰することで宥められ、私たちは神と和解できるのだ。神の怒りと聞くと、神は愛ではないのか、と問われるかもしれない。確かに、神は愛の神である。本来ならば、罪人である私たちに下される神の怒りが、ご自分のひとり子であるキリストに下されることによって、私たちを救われた。そこに神の愛がある。
ではキリストを信じない人はどういう状況なのか。それは、いまだに神の怒りを受ける状況なのである。それほど、神は聖なる方で、義なる方なので、罪の一つでも受け入れることはできない。そして、私たちは、自分の罪は決して一つや二つではない。毎日たくさんの罪を犯している。心の中の妬みや恨み、憎しみや復讐心、言葉によって相手を傷つける皮肉や暴言、そして盗みやごまかしなど。キリストを知らないで、どうやって神に受け入れてもらえるのか。それは無理である。キリストの流された尊い血潮によって私たちは神との和解を受けることができるのだ。
II. 和解して頂いた状態
「22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。」
キリストを信じた人は皆、神と和解されている。もう敵対していない。キリストを信じた人は神に従いたいと願う。そして、神に従っていなければ、そこに喜びはないし、平安もない。むしろ虚しさしかない。それは、放蕩息子のようである。どんなに贅沢しても全てを失って虚しさしかない。キリストを信じていながら、神様とともに歩む歩みをしていないなら、惨めなクリスチャンとなっているはずだ。そして、もしその人がそのような生活をしていながら、何も心に咎めを受けないとしたら、その人は自分の救いが本当かどうかをもう一度自分に問う必要があるだろう。
私たちが和解をして頂いた目的がある。それは、私たちが聖なるもの、傷のないもの、責められるところのないものとして御前に立たせていただくためだ。キリストの血によって信じる人はそのようにされている。そんなことが起こりうるのだろうか、と思うかもしれない。これほど罪深い、心の中は醜い、悪い言葉も発してきた自分、ずるいこともしてきた自分が赦されて、神の前に聖なるもの(罪がない)、傷のないもの、悪魔にも誰にも責められることはないものとされるのだから。そして、そのために私たちは何もしていないということも覚えておきたい。誰にも何もできない。ただ神様がしてくださったことだ。
それは、私たちの生き方を大きく変えることでもある。この世を去る日が来る。その時、私たちは神様の前に立つ。その時に、「わたしが準備した天の御国に入りなさい」と迎え入れられるのか、それとも「わたしはあなたを知らない、永遠の地獄で苦しみなさい」と言われるのかではあまりにも大きな違いがある。ではどう生きていくべきなのか。
III. 和解された人の歩み
「23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。」
私たちは信仰によってクリスチャンとなる。とすれば、私たちは信仰によって生きるものだ、ということを覚えていなければならない。これまでの人生の土台はこの世の何かだったはずだ。そして、それは時として変わることもあったかもしれない。しかし、神と和解した人、すなわちクリスチャンとなった人は、神が和解してくださった目的に沿って、ますます聖なるものへ、ますます傷のないものへ、そしてますます責められるところのないものへと変わる歩みを信仰によって生きる。
信仰によって生きるとはどういうことか。神様がおっしゃることをよく聞いて、それを信じて生きることである。それは、多くの場合、この世の常識とは異なる。例えば、山上の説教の中に、イエス様はこのように言われる。「33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」その前に、「31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。」しかし、私たちは普通、一番最初に考えるのは、食べるためには仕事をしなければならないし、仕事をしていれば忙しいので、聖書を読んでお祈りをする、つまり神様との時間は普段は取れないし取らなくても良い。また、日曜日の礼拝も疲れているので行かなくても良い、他に仕事がないから日曜日に働く仕事をするしかない、と考える。しかし、聖書はなんというか、というとまず第一に神の国と神の義を求めなさい、と言われる。神の国、英語ではKingdom of God、であり、原語でも同様である。つまり、キリストが王であり、あなたの人生でキリストのご支配を受け入れなさい、と言われる。そして、神の義、つまり神の基準に沿った歩みを求めなさい、と言われる。目に見えるところによって歩むのではなく、神様がそう言われるのなら、そのように受け入れます、と。
これは一例に過ぎない。しかし、信仰に土台を据えて、堅く立ち、福音の望みから外れることなく、信仰に止まるというのは、そういうことも含むのではないか。この福音は世界中で伝えられており、パウロはこの福音に仕えている、という。
私たちクリスチャンは信じて終わりではない。始まりに過ぎない。この地上にクリスチャンが置かれているのは理由がある。それは、パウロと同様に、私たちもこの福音を伝える役割を担っているということだ。パウロのように世界に宣教師としていくわけではない。すでに遣わされている自分の住んでいる地域がある。社会がある。家族がいる。友人がいる。それが私たちに任されている「神の畑」である。
最後に第二コリント5章17−21節を読んでおきたい。
「17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
パウロは20節でこう懇願している「神と和解させていただきなさい」と。誰でも信じるならば、和解していただけるのだから。神は私たちが和解に応じるのを待っておられる。それも、最高の条件で。何しろ、何もしなくても良い。ただ、神が用意された救いの道であるキリストの十字架を信じれば良いのだ。
① あなたは神と和解しているだろうか。もし、そうなら新しく造られたものである。あなたの人生の目的、動機、そしてゴールは必ず変わる。クリスチャンと称するあなたの人生で神の国とその義が第一となっているだろうか。
② それはキリストによるのであり、神の怒りを宥める。あなたは、心配しなくても良い。あなたの罪は赦されている。しかし、それで終わりではない。
③ 私たちも和解のつとめを頂いている。それは、福音をそのまま伝えることによる。あなたはすでに遣わされているところで、どれだけ福音を伝える働きをしているだろうか。あるいは、その機会が与えられるように日々祈っているだろうか。機会があるときに、ないがしろにしていないだろうか。





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