牧師のひとり言
- musashibiblechurch
- 2022年1月23日
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最近のメッセージより「救い主イエス・キリスト(2)神は私たちとともにおられる」マタイの福音書1章18−25節
クリスマスの時期になると、神様の愛を考えさせられます。日本では色々なものを神として拝んでいますが、一般の日本人には「神の愛」は馴染みのないものではないでしょうか。聖書を与えてくださった神様は、全てのものを創造され、私たちをも造られました。そして、神様は私たちを愛してくださっています。それでは、神の愛をどのようにして知ることができるのでしょうか。
ローマ人への手紙5章8節に、以下のようにあります。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
神は私たちを愛してそのひとり子をお与えになりました。しかし、人は神に背を向け、自分勝手な歩みをしています。神様に愛されるに値する存在ではありません。むしろ罪深い者です。罪の刈り取りは永遠の滅びです。私たちが滅びることなく、永遠のいのちを得るために、神様はイエス・キリストをこの地上に遣わしてくださいました。これがクリスマスです。イエス様が降誕された目的は、私たちの身代わりに十字架にかかられることでした。
マタイは前回の箇所において、イエスキリストの系図を記しました。それは、イエス様が確かに旧約聖書で預言されたメシヤであるということを証明するものでした。1章16節において、マタイはこのように記しています。「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」すなわちそれは、この系図がヨセフの系図であって、なおかつヨセフは実の父ではなく、法的な父であるということがわかります。ゆえに、イエス様がマリヤからどのようにお生まれになったのかという説明を読者は期待しながら読むのです。
本日の箇所において、23節にインマヌエルという名が出てきます。それは、「神は私達と共におられる。」という意味です。私たちに与えられる祝福の中で、神が私たちと共におられる、ということ以上に素晴らしい祝福があるでしょうか。例えば、私たちの祈りが聞かれる、必要なものが与えられる、導きがある、病が癒される、などなど、そのどれをとってみても、その背後には神が私たちと共におられる、という現実があります。そしてその神の御臨在という真理を私たちが実感するときに、心が熱くなり、神に感謝するのです。
また、神の御子イエス様が、この地上に降りてこられた、また、同じ地を踏み、同じ空気を吸い、私たちと同じ肉体をもって生活をされたこと、また当時の人々に御声をもって語りかけられ、病を癒し、パンを祝福し数千人の人々の腹を満たした、といったことを考える時、まさに神が共におられるということが目で見える形で現実となったのです。本日は、神が共におられるという真理に目を向けて学んでいきたいと思います。
預言の成就
マタイは、この箇所でイエス・キリストの誕生の説明をしています。18節によると、ヨセフとマリヤは婚約の関係にありました。つまり、まだ一緒に暮らしてはいませんでした。その時に聖霊によってマリヤが身重になったということがヨセフにも知らされたのです。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密にさらせようと決めた、とあります(19)。ヨセフにとって、婚約状態にありながら、マリヤが身重になったという事は、不貞があったに違いないと考えたのは当然でしょう。もしそれが公になれば、旧約聖書の規定によると石打ちにすることになりますが、もし内密になっているならば、そのままさらせることができるます。
20節を見ると、ヨセフはこのことを思いめぐらしていた、とあります。どうすべきか思い悩んでいたことでしょう。様々な葛藤があったに違いありません。その時、主の使いが夢に現れて、「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と告げました。
ここでも、主の使いは名前だけを呼ぶのではなく、「ダビデの子ヨセフ」と呼びます。そこにはイエス様の法的な父であるヨセフは、確かにダビデの家系の者である、すなわち、イエス様は正真正銘のダビデの子であると言うことを再認識させてくれるのです。そして、ここに16節で出てきた疑問に対する答えが記されています。すなわち、どのようにしてマリヤはイエス様を身ごもったのか、と言うことです。それは、「聖霊によるものである」ということです。よって、決して不貞によるものではなく、安心して妻マリアを迎えなさい、と言われました。
ここで私たちはいわゆる処女懐胎と言う事実を知ることになります。そして、それが預言の成就であるとマタイは明言します(22節)。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(23節)という預言です。これは、旧約聖書のイザヤ書7章14節の引用であり、イエス様が処女マリヤからお生まれになることが、この預言の成就なのです。
それではここでイザヤ書7章14節を見てみましょう。「それ故、自ら、あなた方に1つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名付ける。」ここで背景を確認しておきましょう。南王国ユダの王、アハズの時代のことでした。アッシリアという大国が、パレスチナの小さな国々に攻めてきていました。そこで、北王国イスラエルとシリヤは、ユダの王アハズに対して、アッシリヤに対抗するために同盟に参加するよう圧力をかけてきました。しかし、アハズはその申し出を断ったが故に、今度はシリアとイスラエルの連合軍がユダを攻めてきたのです。そこでアハズも民の心も動揺した、とあります(2節)。主はイザヤを通して、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」(4節)と言われました。
さらに、主はアハズに告げてこう言われます。「あなたの神、主から、しるしを求めよ、よみの深み、あるいは上の高いところから。」(11節)つまり、アハズが主に信頼するために必要なしるしを何でも良いから求めなさい、そうすれば主はそのしるしを与えられる、と言われるのです。例えば、ギデオンは羊の毛の上につゆが降りるように、あるいは逆にその周りだけつゆが降りるようにというしるしを求めました。そして主はその祈りに答えられ、そのようなしるしを与えられました(士師記6章36−40節)。
アハズも大きな危機に遭遇していました。ギデオンのように、彼も主に信頼してしるしを求めればよかったのです。しかし、アハズはそうはしませんでした。12節を見ると、「私は求めません。主を試みません。」と言います。アハズの心は決まっていました。なんと、アッシリアに助けを求めて、この危機を乗り切ろうとしていたのです。よって、敬虔な言葉を使ってはいましたが、実は主に反逆をしていたのです。
そこで、イザヤは13節でこう言います。「さぁ、聞け。ダビデの家よ。あなた方は、人々を煩わすのは小さな事とし私の神までも煩わすのか。」ここで注意したいのは、イザヤはアハズに言っているのではなく、ダビデの家全体に語っているということです。すなわち14節の預言は、アハズ個人ではなく、ダビデの家に与えられています。アハズがしるしを求めませんでしたが、主ご自身がしるしを与えられました。そのしるしはひとりの処女が身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエル、すなわち神が共におられると言う名を与えられるということでした。
ではそのしるしはどういう意味なのでしょうか。ダビデの家に対して与えられたこの預言はイエス様がお生まれになる700年以上も前のことです。そのしるしがどのような意味があるのでしょうか。実は、しるしには2つの種類があります。1、あるしるしを与えるゆえに神に信頼して従いなさい、という意味のしるし。2、後で振り返って確かに主がおっしゃった通りになったと言う確認のためのしるし。この場合のしるしは、両方の意味を持っていると考えられます。イザヤはアハズに神に信頼するために必要なしるしを求めなさい(1の意味)と言われます。しかし、これからアハズの不従順の故に、ユダはアッシリアに悩まされることになる、また、アハズだけではなく、ダビデの家系にある王たちの、そしてまた、民の不従順のゆえに、バビロンに捕え移されることになります。そしてその後、ダビデ王朝はなくなってしまいます。そのような大きな危機にダビデの家は直面しているのです。しかし、主は決してダビデとの約束を忘れてはいないことを示されました。あとで振り返ってみて、やはり主が語られた通りになったとわかるのです(2の意味)。
ここで私たちが学ぶ事は何でしょうか。それは私たちの目の前の状況はどうであれ、神の御言葉に信頼すると言うことです。そしてそれは主が共にいてくださるという祝福を受けるために、どうしても必要なことなのです。
罪から救うお方
「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」とみ使いがヨセフに告げました(21節)。「イエス」とは、「主は救われる」という意味です。旧約聖書のヨシュアです。
ユダヤ人たちが求めていた救い主は、彼らをローマから救い出す、政治的な指導者でした。しかし、み使いがはっきり言っている事は、罪から救ってくださるお方であると言うことです。確かにローマがある程度の自由を与えていたとは言え、ユダヤ人にしてみれば、ローマにいちいち伺いを立てたり、税金を取られたりする事は、耐えられないことでした。その証拠に、ユダヤ人はAD 66年に反乱を起こし、結局、AD 70年、エルサレムは崩壊し、彼らはその後、1900年にわたって祖国を持たない民族となってしまいます。しかし、どんなにローマな強国であったとしても、人の作った国や支配はいつかは崩壊するものです。数百年後、ローマは分裂し、残っていた東ローマ帝国も、15世紀にはオスマン帝国によって滅ぼされていきます。
しかし、罪から救出してくださる方が、イエス・キリストの他に誰がいるでしょうか。私たちの罪を赦し、その刑罰である第二の死、すなわち永遠に地獄で苦しむという滅びから救出してくださる方は、十字架の上で身代わりに死んでくださったイエス・キリストの他にはいないのです。
すなわち、イエス様がこの地上にお生まれになったのは、私たちの身代わりとなって十字架で死ぬことにより、私たちの罪を赦すという神の御心を達成するためでした。これがクリスマスの本当の意味です。
私たちがこの御言葉からどんなことを学べるのか。それは、神様がひとり子を惜しまず与えてくださり、私たちをその罪から救ってくださると言う事実を思いめぐらして神の愛を実感し、またそれに応える愛を私たちは持って仕えるべきであると言うことではないでしょうか。
従順が求められる
私たちはここまで学んできて、神の壮大な救いのご計画がどれほど素晴らしいことなのかがよくわかります。アハズだけでなく、ダビデの家とその民が不従順であったにもかかわらず神はダビデの家系を守り、おっしゃった通りにしるしを与えて成就された。そしてここに、ヨセフという1人の大工であり、なおかつダビデの家系にある1人の青年がいます。彼の心中を察するならば、あまりにも大きなこと、自分の理解を超えることが、目の前で起きていて、すぐには受け入れる、あるいは理解することが困難な状況にあります。
しかし、ヨセフはどうしたでしょうか。24節によると、ヨセフは眠りから覚め、主の使いに命じられたとおりにして、マリヤを迎え入れたとあります。周囲の目を気にしなくてはならない状況です。もちろんマリヤのことを信じ、み使いの言葉を信じてマリヤを受け入れるのですが、そこには様々な危険も待っています。もし他の人に知られたとしたら、どうなるだろうか、という心配も出てきてもおかしくはありません。しかしヨセフは神の御言葉に従いました。そして一番最初に救い主イエス・キリストに会い、その出産を喜び、そしてまた子ども時代のイエス様を育てていくという祝福に与ることができるのです。神が私たちと共におられるという現実をヨセフは特別な形で体験することができました。
もし、ヨセフが従わなかったとしたら、その祝福に預かる事はありませんでした。もちろん、そんな仮定は無意味です。神が導いて、ヨセフは従いました。これは私たちに対するチャレンジだと考えてよいでしょう。すなわち神が私たちと共におられるという事実を、私たちが体験することができるとしたら、そこにはやはりヨセフのように神の御言葉を信じ、神に信頼し、信仰をもって一方踏み出し、従っていかなくてはならないということではないでしょうか。
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