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牧師のひとり言

  • musashibiblechurch
  • 2022年4月30日
  • 読了時間: 7分

最近のメッセージより「十字架の意味すること」マルコの福音書15章21−40節


 

I. 罪人と共に数えられる

II. 計り知れない苦しみ

III. 開かれた救いの道



 イエス・キリストが十字架に掛かられた。これは歴史上の事実であり、疑う余地のないところである。 意見が分かれるところは、イエス・キリストがなぜ、何のために十字架にかかったのか、そしてその意味するところは何なのか、と言うことであろう。ある人は、 イエスは殉教者であり、自分の信仰のゆえに迫害を受け、 十字架刑を受けたと考える。その人にとって、イエス・キリストの十字架は、何の意味もないことである。しかし、実際は私たちにとって非常に大きな意味を持つ神のご計画の成就である。このキリストの十字架がなかったとしたら、私たちは未だに次の中を迷っていて、死を恐れ、その向こうにある滅びの恐怖から解放されていないことになる。そしてその滅びは、決定付けられたものとなっている。


 今日は、特に、イエス様が十字架の上でどのような苦しみを受けたのかを 詳細に見ていきたい。そのようにして成し遂げられた素晴らしいみわざを見ていきたい。さらに、私たちが十字架を背負ってイエス様についていくと言う意味も考えてみたい。


I. 罪人と共に数えられる(22−35)

 22節にはイエス様をゴルゴダに連れて行き、23節にはイエス様に没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたとある。 没薬(もつやく)を混ぜたぶどう酒とは、 いわば麻酔のような役割を持っている。すなわち、十字架の苦しみを少しでも和らげてくれるようなものである。もちろん、彼らがイエス様のためにそのようなものを与えようとしたのではなく、むしろ十字架の上で叫んだりするのを やめさせて、自分たちが楽な形で刑を執行するためであろうと考えられる。いずれにせよ、イエス様はこの没薬を混ぜたぶどう酒を受けられなかった。その目的はただ1つ、十字架からの苦しみをそのまま受けとるためである。それでは、罪人と共に数えられる、と言うことを一緒に見ていきたい。


 この箇所には、 ローマの兵、道ゆく人々、祭司長たち、律法学者たちは、イエス様を軽視し、ののしったことが記されている。もちろん、彼らにとっては、イエス様が十字架にかかるような罪人であるとして捉えているのだから、当然かもしれない。 そして、27節を見ると2人の強盗がイエス様とともに十字架につけられたことが記されてある。 それは、「この人は罪人と共に数えられた」と言うイザヤ書53章12節の御言葉の成就である。罪人と共に数えられる、という事は少なくとも、このような仕打ちを受けると言うことである。


 27節を見ると、二人の強盗が右と左に1人ずつ十字架にかけられたとある。 28節には「 『この人は罪人と共に数えられた」とある聖書が実現したのである。」とある。 (イザヤ書53章12節) ルカの福音書によると、その1人は後に考えを変えて、自分の罪を認めイエス様に救いを求める。彼はイエス様が、自分たちとは全く違った理由で十字架にかけられているということがわかって、自分の罪が示されて悔い改めたのだ。


 このように、罪人と共に数えられると言うのは、周囲の人々から罪人(ざいにん)扱いされると言うことになる。そして、それも非常に苦しいことであるのだが、何よりも辛かったのは父なる神に顔をそむけられたことではないか。 34節に、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」とイエス様が叫ばれたとある。それは、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と言う意味である。 これは、詩篇22篇1節の引用であるが、この言葉は、まさに父なる神と御子イエス様のこの時の状況を如実に表している。


 イエス様は、父と私は1つであるとおっしゃっている。それなのに、イエス様は、私たちの罪を負っているが故に、罪人と共に数えられ、もっと言えば、罪人として神の前に立った。 神はきよいお方であるので、私たちの罪を負っているイエス様から顔を背けられ、 その怒りを下し、罰を与えられたのだ。 その苦しみは、計り知れない。しかし、その身代わりの罰としてイエス様が十字架を受けられたが故に、私たちの罪は許され、永遠のいのちをいただくことができるのだ。


 私たちは罪人であるが、自分が犯した罪ではなく、人の罪のゆえに、罰を受けるとしたら、どれほど辛いことであろうか。不合理なことであり、受け入れがたいことだ。 そして、そのゆえに 人々から非難され、愛する家族や友人からも見捨てられたとしたらさらに辛いものがあるだろう。 イエス様は罪がないお方であるゆえに、私たちの想像をはるかに超えてその精神的な、また霊的な苦しみはものすごかったであろう。


II. 肉体の苦しみ(36)

 22節であったように、イエス様は没薬の入ったぶどう酒を拒まれた。それは、十字架の苦しみを真正面から受け止めるためであった。今度は、36節で、 ローマの兵士の1人が走っていって、海面に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしたとある。 「飲ませる」と言う言葉は、未完了形で、それは過去の継続を表す。すなわち、イエス様はそれを飲んでいる間、 その兵士は葦の棒を持ち続けたと言うことだ。これは詩篇69篇21節の成就である。


 それは、イエス様がどれほど苦しまれたのかということを表している。すでに鞭打たれて、多くの出血をしたのち、十字架にかけられて、不自然な姿勢ですでに6時間が経とうとしていた。少しずつ死に向かう、それが十字架である。わたしたちにはその苦しみは想像すらできない。


 罪に対する罰は永遠の滅びである。それをイエス様が十字架で身代わりに受けてくださった。最終的に死に至るまで。37節で、イエス様は大声をあげて息を引き取られたとある。死の直前、普通ならそのような大きな声を出すことなどできない。その時には、「完了した」と叫ばれた。この地上に来る目的、すなわち私たちの罪の贖いを達成されたことを宣言された。

 私たちはマルコの15章を1節ずつ丁寧にゆっくりと読みながら、イエス様の通られた十字架の道に思いを馳せ、感謝する時を持つべきではないか。


III. 開かれた救いの道(38−39)

 イエス様が息を引き取られたときに、 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとある。 その幕とは、神殿の中の聖所と至聖所とを隔てる幕の事である。 大祭司が、年に1度、贖いの日に入り、そこで贖罪を行う。それは、大きく重い幕である。それが上から下に真っ二つに裂けた、というのは、もちろん自然に起こったことではなく、神様がなされたことだ。そこには霊的な意味がある。それを説明しているのがヘブル書6章19−20節、10章19―22節である。それまで、大祭司だけが神に近づいて人々のために贖いをしていた。しかし、今やその幕は取り去られ、誰もがイエスキリストを通して神のもとに近づくことができる(10:22)。


 それまで一部始終を見ていたローマの百人隊長は、こういう。「この方は誠に神の子であった。」と。イエス様がご自分を神の子としたとユダヤ人が責めているのを聞いたであろうし(ヨハネ19章7節)、十字架の周りで彼らがその称号を使って嘲っているのを聞いただろう(マタイ27章40節)。 そのようなことも鑑みて、またイエス様がこの十字架の上で語られた言葉や振る舞いを見て、彼は確信した。


ここで、21節を見ていただきたい。そこには シモンと言うクレネ人が通り掛かり、イエス様の十字架を無理やりに背負わされたことが記されている。クレネ人と言うのは、北アフリカに住む人たちだが、彼はおそらくユダヤ人だったと考えられる。そしてその息子たちがアレクサンデルとルポスであった。 その名前を出していると言う事は、当時マルコの福音書を読む人たちがその2人のことを知っていたと考えられる。 ルポスは、ローマ書16章13節に記されている人の名前だ。 ローマの教会の読者たちは、 十字架を背負うことについて大きな励ましを受けたに違いない。マルコ8章34節を見ていただきたい。 シモンは、無理やりに、文字通り十字架を背負わされたが、それは後で考えると素晴らしい特権であった。私たちは、自ら十字架を背負ってイエス様についてきなさいと言われる。 私たちも、イエス様のように、たとえ恥を受けたとしても、イエス様についていくと言う決意を新たにしたい。

 
 
 

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