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牧師のひとり言

  • musashibiblechurch
  • 2022年5月2日
  • 読了時間: 9分


最近のメッセージより「最も大切なこと」第一コリント15章1−8節

 

I. 福音によって救われる(1−2)

II. キリストは私たちの罪のために死なれた(3)

III. キリストはよみがえられた(4−8)


 人は 何の目的で生まれてきて、死んで、その後どこに行くのだろうか。 私たちは、今生きていることを何の不思議もなく思い、また、死んでしまったらどうなるかもあまり考えようとしない。おそらく、考えても答えがないと思っているからではないだろうか。 ある人は、死んでしまったら何もない、何もわからない、と言う。しかし、心のどこかに、死んだ後に何かあるのではないか、と考える。


神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。伝道者の書 3:11


「神は人の心に永遠を与えられた。」とある。つまり、私たちはどこかしら、永遠ということに心を向けてしまうのは神様がそのようにされたからだ。そして、実際に永遠がある。


大切な事は、永遠をどこで過ごすかということだ。 ある人は長生きしたい、と言う。またある人は、 生きていかなくてはいけないからしかたなく生きている、つまりもうあまり長生きはしたくない、と言う。たとえ、100歳まで生きたとしても、そして健康であったとしても、死を迎えたら、その後は永遠が始まるのだ。「あなたは、死んだ後に天国に行きますか、あるいは、天国に行きますか。」と問われたら、どう答えるだろうか。 ある人は、天国に行くのが当然だと考えている。また、一方で、その重大さを考えることなく、「自分は地獄に行くよ。」と答える人がいる。


聖書では、天国と地獄があること、また、天国に行く方法を神様が備えてくださっており、その方法で必ず誰でも天国に行くことができること、そして、天国に行かない人は全て地獄で永遠に苦しむと言っている。


本日のタイトルにある「最も大切なこと」をご一緒に考えていきたい。


「1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。

8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」(第一コリント15章1−8節)


I. 福音によって救われる(1−2)


福音とはなんだろうか。それは、良い知らせ、ということだ。神様は私たちに 良い知らせをくださっている。それは救われると言うことだ。 多分とかおそらくとかということでは無い。必ず救われると言うのだ。

 

天国にはないものがある。それは罪だ。罪を持って誰1人天国に入ることができない。 では、 罪とは一体何だろうか。それは、私たちを造られた創造主である真の神を神として認めず、自分勝手に生きることである。 その結果、私たちは自分中心の生活をし、人を傷つけたり悪く思ったり、悪く言う。


マルコ7章20−23節にはこうある。「イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。


私たちは、こういった心の罪、言葉の罪、行いの罪の何がしかに心当たりがあるのではないか。罪をもったままでは、決して天国に入ることができない。しかし、神様は天国に入ることができるようにその道を備えてくださっている。それが福音である。


そして、信じる人を全て完全にお救いになることができるお方である。

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7章24−25節)


II. キリストは私たちの罪のために死なれた(3)


では、具体的に福音のメッセージはなんだろうか。それは、キリストは私たちの罪ために死なれた、というのがまず第一のことだ。


キリストが十字架に かかって死んだと言うのは歴史上の事実である。しかし、そこに「私たちのために」という点がある。それはとても重要である。では、私たち、すなわち皆さんと私のために、なぜ十字架にかかられたのか。それは、私たちが救われる方法はそれ以外に何もないからだ。


「罪の報酬は死です。」(ローマ6章23節)


毎日罪を犯す私たちがその刈り取りとして受け取るものは、「死」である。肉体の死が訪れるのも罪の結果だが、それ以上に恐ろしいのは第二の死である。すなわち、神の裁きを受けて、もう一度死がやってくる。それは、永遠に続く、火と硫黄の燃える池に投げ込まれて、苦しみ続ける。終わりがない。そこから救い出すために、キリストは私たちの身代わりとなって罰を受けられた。それが十字架の死である。


イエス様は、「完了した」と言って息を引き取られた。それは、この地上に降りて来られた目的を達成されたということをおっしゃっている。すなわち私たちのために、ご自身は罪がないのに罪があるものとされ、その罰を自ら受け、そして死んでくださった。それは、私たちがそれによって神の前に正しいものとされて、すなわち、罪が赦され、天国に入ることができるようにしてくださったのだ。


III. よみがえって多くの人に現れた(4−8)


福音のもう一つの大切なこと、それはキリストがよみがえられたと言うことだ。それは、仮死状態から蘇生されたというのではない。死んだことははっきりと確認されている。一緒に十字架にかかった強盗の二人のすねは折られたが、イエス様は確かに死んでいたので、ローマの兵士はすねを折ることはしなかった。また、兵士の一人が脇腹を刺して、血と水(分離していた)が出たとある。さらに、ヨハネはそれを目撃したと言っている。


「それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。」(ヨハネ19章32−35節)

 

そして、アリマタヤのヨセフとニコデモという二人の弟子たち(それまでは表に出ることはなかった)がイエス様を葬った。


「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」(ヨハネ19章38−42節)


しかし、イエス様は3日目によみがえられた。それは、聖書にしたがって、とあるとおり、旧約聖書に預言されている。


まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16篇10節)


もし、キリストが死んで葬られて、そのままだったとしたら、私たちの信仰は虚しいと聖書は言っている。


そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(第一コリント15章17−19節)


イエス様の働きは、十字架で終わるものではない。よみがえり、天に昇られ、そして今、イエス様は、天において私たちのために執り成しをしてくださり、そしてまたもう一度この地上に来てくださると約束している。「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9章26−28節)


初代教会の人たちは、何度も、何度も、キリストの復活を宣べ伝えた。それは、キリストが今も生きておられるということを伝えたのである。そして今も、イエス様は生きておられる。私たちのために執り成しをしてくださっている。私たちがイエス様のもとに来るならば、必ず、完全に救ってくださる。イエス様と一緒に十字架に かかった強盗の1人は、イエス様を信じて天国に行くという約束をいただいた。 そして、イエス様は私たちを迎えるためにもう一度来られると記されている。 その時にすでに死んでいる人の霊はすでに神のみもとにあるが、体はその時によみがえり、その時に生きている人はそのまま天に引き上げられると約束されている。(第一テサロニケ4章13−18節)イエス様はよみがえって生きていなかったとしたら、そのような事は起こり得ないだろう。しかし、確かにイエス様はよみがえり、生きておられて、必ずキリストにある者を迎えに来られる。


人は誰でも必ず死を迎える。そして神の前に裁きを受けるために立たなければならない。それは神が私たちに命を与え、この地上で神の御心に従って生きることが求められているが、それに従って生きたかどうかを問われる。


あなたは神に会う備えができているだろうか。

 

イエス様はすでに十字架にかけられ、よみがえられた。信じる人は 誰でも救われる。

 

クリスチャンの皆さんにお尋ねしたい。キリストを信じている人は、必ず天国に行くと聖書は語る。しかし、皆さんは神様から与えられた人生を神様のために生きておられるだろうか。神様から与えられたタラントを神様のために用いているだろうか。 残された人生を主のために生きる、その決心をされているだろうか。

 
 
 

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