牧師のひとり言
- musashibiblechurch
- 2022年5月15日
- 読了時間: 6分
最近のメッセージより「神は正しく裁かれる」ローマ人への手紙2章1−5節
I. 他人を裁き自分も同じ罪を犯す人(1−3)
II. 神の慈愛、忍耐、寛容を軽んじる人(4)
III. 頑なに悔い改めを拒む人(5)
ローマ書1章において、異邦人が非常に罪深いことをパウロは語ってきました。(1章26節から31節) あらゆる不義と悪と貪りと悪意から初め、慈愛のないものまで。異邦人であっても、決して 神の前に弁解の余地は無いと言います。 32節には、「彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」とある通りです。しかしながら、一方で、神様から多くの恵みを受けてきたユダヤ人たちはどうでしょうか。2章に入ると、ユダヤ人に向けての厳しい言葉が記されています。「 ですから、すべて他人を裁く人よ。」という言葉から始まります。 しかし、これはユダヤ人だけに語られた言葉ではありません。霊的な特権を受けたユダヤ人とクリスチャンはある意味で似ています。それで、私たちも自分の信仰とその歩みを振り返らなければならないのです。
I. 他人を裁き自分も同じ罪を犯す人(1−3)
ユダヤ人は、異邦人が神様を知らず、思い思いの偶像を拝み、さまざまな罪をおこなっていると言う事で、彼らを裁いていました。実際に、1章26−31節に記されていることは、確かに罪深いことであり、神はこのような罪を裁かれます。(32節)ここで、パウロは主にユダヤ人に向かっていいます。「ですから、全て他人を裁く人よ。あなたに弁解の余地はありません。」 原語における文構造を見ると、「弁解の余地はありません、あなたには。」から始まるのです。つまり、「弁解の余地はありません」が強調されています。そして、同じ言葉が、1章20節にも使われているのです。1章20節の時には、神の本姓が創造の時からこの方、被造物に知られているので、その神を無視して罪の中に生き続けることをどう弁解しようともできない、ということでした。
では、この箇所ではどうでしょうか。それは、他人を裁いておいて、自分も同じ罪を犯し、そのことで自分を罪に定めているというのです。「罪に定める」という言葉は興味深いです。なぜなら、普通、罪に定めるのは、それなりの権威を持っている人です。例えば、祭司長、律法学者はイエス様を死刑に定めましたが、その時にも、この言葉が使われています。一方で、マタイ12章41節には、ニネベの人がこの人たちを罪に定めるとあります。新改訳2017では、「罪ありとする」と訳されています。そして、ここでは、自分が自分自身を「罪ありとしている」というのです。それは、他の人を責めていながら、自分も同じことをしているからです。そして、神は「正しく裁かれる」(2)とあります。それは、「真理に基づいて」裁かれるのです。人は自分の思いや偏見で人を裁くでしょうし、自分に対しては甘くなるでしょう。しかし、神の裁きは正しいのです。
ユダヤ人はどこかしら、自分達は異なるルールで裁かれると考えていたのでしょう。それで、3節で、パウロは、「あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」といいます。それは、質問しているのではなく、本当はそれを否定しているのです。「もしそう思っているとしたら、それは大きな間違いですよ。」と言いたいのです。
II. 神の慈愛、忍耐、寛容を軽んじる人(4)
まず、原文では、「その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」から始まります。神様の慈愛は豊かです。慈愛とは、親切なことであり、神様は恵みを与えてくださることです。また、忍耐とは強い側が自発的に復讐を待つこと、そして、寛容とは、罰を与える前に時間を取ることです。 この人たちは神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじるのです。軽んじるとは、まさに、軽く見る、真剣に受け止めないことです。人は神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじます。つまり、神様がそのようなお方であることを受け止めることなく、むしろ神を責めるのです。なぜ神は罪もない人をこのような目に合わせるのか、とか。しかし、もし神様が慈愛がなく、忍耐もなく、寛容もないお方であるなら、私たちは誰一人この地上に存在していないでしょう。そもそも、アダムとエバが罪を犯した時点で滅ぼすことさえできたのです。私たちが朝目覚めるのも、美味しくご飯が食べれるのも、こうして動けて、教会に来られるのも、ただ神様の慈愛によります。私たちが罪を犯しても、忍耐と寛容をもって裁きを遅らせてくださっている。よって、悔い改めて神様のもとに来ることができるのです。
「神の慈愛が悔い改めに導く。」悔い改めとはなんでしょうか。それは、罪について自分の考えが変わること。それまでは、罪を愛していたが、これからは、罪を捨て、神様に赦しを請うことです。180度転換することです。
私たちが自分の罪を認め、悔い改めることができるのは、ただ神の慈愛によるのです。自分は自分の罪に気づき、悔い改めたと思うかもしれない。しかし、それも神様がそのように示してくださったのです。わたしたちに誇ることなどないのです。
III. 頑なに悔い改めを拒む人(5)
「頑な」という表現は、旧約聖書に16回使われています。また、心が固いという表現は主に新約聖書に使われています(5回)。すなわち、イスラエルの人々は神様の言われることに耳を貸さず、心が固くなっている状態でした。例えば、ネヘミヤ記9章17節。
「彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行われた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。」
原語でスクレーロテータ、それは、英語で関節などが固くなって動かない状態をいうそうです。日本語聖書では、「うなじのこわい」という表現がされています。そのようにして、 神様の御声を拒絶し、悔い改めを拒んでいる人たちを指すのです。神様が語ってくださっているのに、心を柔らかくして聞こうとしない。病的に関節が固くなって動かない場合、放っておくとますます固くなっていく。同じように、心が頑なになって悔い改めようとしないのです。
そのような人は、どうなるのでしょうか。もしかしたら、今は何も起こっていないかもしれない。しかし、 神の御怒りの日、すなわち神の正しい裁きの現れる日の御怒りを自分のために積み上げている、とあるのです。
それは、恐ろしいことです。なぜなら、神の怒りほど恐ろしいものはないのに、その怒りがどれほど積み上がっているのかわからず、それによってどれほどの裁きがあるのかもわからないからです。
借金がどれほど積み上がっているかわからない状態を想像するかもしれません。しかし、その場合、自己破産をすることで借金は棒引きになるわけです。しかし、神の怒りは棒引きにはなりません。ただ、それが赦される唯一の方法があります。それは、イエス・キリストの十字架です。神様は正しい方であり、一方で恵深いお方です。そこで、わたしたちの罪を赦すために、その罰を誰かが受けなければなりません。それをイエス様が身代わりに受けてくださったのです。
本日のみ言葉からどのようなことが学べるでしょうか。
1 どれほど見た目は立派に生きているように見えたとしても、結局さばいている対象と同じ罪をおこなっているなら、神様による正しい裁きがあることを覚えていなければならないのです。
2 神様の慈愛、忍耐、寛容は私たちが悔い改めるためにあるのだということを覚えておきたいのです。神様の忍耐がなければ、とっくに滅びています。今、生かされているのは、神様が悔い改めを待っておられるからだということを覚えましょう。
3 頑なに悔い改めを拒み続けるなら、必ず神の怒りがあるということを覚えて、できるだけ早く悔い改めなければなりません。まず、自分の歩みを振り返りつつ、イエス様を知らない方々にお伝えしたい。
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